鬼平・遠山の金さん屋敷跡
診療室入口には鬼平・遠山の金さん屋敷跡であることを示すモニュメントが建てられております。
モニュメントに書かれている内容は以下のとおりです。
この一帯は江戸時代に火付盗賊改役、長谷川平蔵や江戸町奉行、遠山左衛門尉景元(遠山金四郎)が暮らしていた屋敷跡です。
長谷川家は家禄400石の旗本でした。平蔵宣以19歳の明治元年(1764)父平蔵宣雄の屋敷替えにより築地から本所三の箸通り菊川の1200坪余りの屋敷へ移りました。 宣以は火付盗賊改役として通例2~3年の任期のところ、没するまで8年に及び在職し盗賊逮捕に実績を上げました。 池波丈太郎の「鬼平犯科帳」はその情景を彷彿させます。 また職業訓練をもって社会復帰を目的とする石川島の人足寄場(にんそくよせば)を提案、実現させました。 寛政7年(1759)病のために50歳で本所の屋敷で没しました。
その後、弘化3年(1846)に孫の4代目平蔵の屋敷替えにより、江戸町奉行遠山左衛門尉景元(遠山金四郎)の下屋敷になりました。 遠山金四郎は江戸北町奉行に天保11年(1840)に任命されました。金四郎は天保14年(1843)奉行を罷免されますが、老中水野忠邦失脚後の弘化2年(1845)3月再び南町奉行として任命されました。 以後、名奉行の名を残す評判を集め「遠山の金さん」として浪曲や講談に登場するほど人々にも慕われました。 天保改革で弾圧を受けた歌舞伎を浅草若町に再生したことは金四郎の尽力によると伝えられています。 この地は江戸の町人感覚にも通じ治安に貢献した二人のゆかりの土地です。
当医院にも『遠山の金さん』が現れたとか?!

当医院前のモニュメントは、平塚市在住の洋画家:平野杏子さんに無償でデザインしていただいた作品です。
平野さんの作品の一部をご紹介します。


静寂 - 平塚市美術館蔵


磨崖仏賛Ⅲ - 平塚市美術館蔵


トキオコシA - 美ヶ原高原美術館


トキオコシB - 町田市立国際版画美術館